峻山名峯の連なる山岳、清らかな河川、深い渓谷など、美しい大自然に恵まれた天川村は、その4分の1が吉野熊野国立公園に指定されています。なかでも「近畿の屋根」と称される大峯山脈は、近畿最高峰の八経ヶ岳(1,915m)を擁し、日本百名山のひとつにもあげられています。この山脈から流れ出す清流により、天川村は「水の郷百選(国土庁)」に選ばれるとともに、洞川湧水群「名水百選(環境庁)」に選ばれています。ゆったりとくつろげる温泉や森林の四季の彩りも、多くの人びとの賞賛するところとなっています。
天川村はまた、歴史の宝庫です。役の行者を開祖とする修験道や、皇室をはじめとするわが国の政(まつりごと)の中心人物たちと深いかかわりをもちつづけてきました。秘められたその歴史を、絵巻物語にして天川村総合案内所前にも展示していますので、ぜひご覧ください。
天川村は、奈良県のほぼ南半分を占める吉野郡の中央部に位置するとともに、紀伊山地主部にあたる吉野山地の中心に立地しています。吉野山地の主脈であり“近畿の屋根”とされる大峯山系が、本村の東部に連なり、北境および南境もこの支脈によって形づくられ、西端は天ノ川の流出口になっています。こうした自然環境が、古くはこの地を“秘境”化していましたが、現在では交通網の充実に伴い、急速にその隔絶性がとり除かれてきました。
本村の周囲は、北方に黒滝村、西北方には五條市西吉野町、西・南方は五條市大塔町、東・北方は川上村、そして東・南方は上北山村と、急峻な大峯山脈とその支脈を境として接しています。本村の面積は、175.70平方kmで、奈良県内では奈良市についで第7位にあたります。また、形状は東西に細長く、南北に狭いという不規則な地形によって形成されています。
この大峯山脈の中央部にあたる最も高峻な山岳地帯から流れ出す美しい清流は、本村の特徴の一つで、国土庁の「水の郷百選」に選ばれています。また、洞川湧水群は環境庁の「名水百選」に選ばれています。それらの河川は天ノ川を主流とし、村内を西流しながら縦断し、吉野山地を南流する十津川(下流は熊野川)へと合流します。その長さは直線にして約20kmで、屈曲が著しいため実長は約49kmに達しています。
村の周囲は、1500m〜1900mの高山が十数峰ある深山地帯に属しているため、気候は低温多湿で、降雨量は比較的多くなっています。夏季はきわめて冷涼で、天然記念物であるオオヤマレンゲやトウヒ、シラベの原生林など特異な植生もみられます。そして、村の4分の1にあたる52.74平方kmが吉野熊野国立公園に指定され、自然環境に恵まれた美しい村として知られています。
天川村は高い山と深い谷によって形成されており、冬季はきわめて寒冷であるため、古くは人びとが定住するにはいたらなかったようです。本村には原始遺跡はほとんど発見されておらず、耕地に適した地形が少ないことが、先住者を妨げたことが容易に推察されます。また、高天原に所以するとされる「天の川」という名称が、この地方の河谷に名づけられたという伝承があり、この地域が定住することがはばかられた一種の聖域だったとも考えられます。そして、このことが修行者たちの「行場」を開くきっかけとなり、約1300年前に役の行者により大峰開山がなされて以来、人びとの定住を促すことになり、山岳修験道の根本道場として栄えてきました。そして、平安時代には、宇多天皇、菅原道真、藤原道長、白川法皇、西行法師などをはじめとする多くの貴顕や一般の人々が、熱心に大峯山への御岳詣を行いました。
また、大峯連山の一つの弥山に祠られた弥山大神の歴史もきわめて古く、天川神社の創建とその隆盛とともに聖域化され、これらに前後して「天ノ川」という河川名が生まれたと考えられます。地形的には、現在の阪本を分岐点として遠つ川(十津川)と天ノ川に分けられていました。本村は、大海人皇子と深いつながりがあり、皇子は、壬申の乱に勝利して即位した後、吉野総社として天河社の神殿を造営しています。また、天平5年(733)、光明皇后は、生母供養のための奈良興福寺西金堂建立にあたって、西金堂の荘厳具のひとつである華原磬の台石に、洞川地区から産出される白石(大理石)を用いたと伝えられます。その後、南北朝時代には、本村は南朝方の重要な拠点として後醍醐天皇、護良親王、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇などを擁護しつづけ、現在、十三通もの綸旨・令旨が残されています。本村は、天河弁財天社の信仰を核にして繁栄し、ことに南朝天皇による課役免除の綸旨による恩典もあって、経済的にも安定していました。
本村は、戦の必需品である弓竹の矢の産地としても知られ、南朝方、織田・豊臣両氏に矢竹を上納しました。江戸時代には、天川23ヶ村(和田、栃尾、九尾、坪内、日裏、中谷、沢原、河合、中越、沖金、小原、南角、五色、沢谷、北角、洞川、山西、籠山、庵住、塩野、滝尾、塩谷、広瀬)は天領とされ、年貢の他に矢竹を上納し、幕府の役人である代官によって統治されていました。幕末期には、天誅組挙兵による若干の余波がありましたが、天川郷は比較的平穏裡に明治維新を迎えました。そして、明治22年の「市制及び村制」の発布によって、旧天川郷・三名郷(吉野八荘の一つ天川荘が分かれたもの)の合体により天川村となり、以来、村政百年をへての歴史を刻んでいます。
1889(明治22年) |
|
---|---|
1899(明治32年) |
|
1900(明治33年) |
|
1901(明治34年) |
|
1902(明治35年) |
|
1921(大正10年) |
|
1925(大正14年) |
|
1930(昭和5年) |
|
1935(昭和10年) |
|
1946(昭和21年) |
|
1948(昭和23年) |
|
1950(昭和25年) |
|
1952(昭和27年) |
|
1954(昭和29年) |
|
1958(昭和33年) |
|
1960(昭和35年) |
|
1961(昭和36年) |
|
1964(昭和39年) |
|
1965(昭和40年) |
|
1967(昭和42年) |
|
1968(昭和43年) |
|
1969(昭和44年) |
|
1970(昭和45年) |
|
1971(昭和46年) |
|
1972(昭和47年) |
|
1973(昭和48年) |
|
1974(昭和49年) |
|
1975(昭和50年) |
|
1976(昭和51年) |
|
1978(昭和53年) |
|
1980(昭和55年) |
|
1981(昭和56年) |
|
1982(昭和57年) |
|
1983(昭和58年) |
|
1984(昭和59年) |
|
1985(昭和60年) |
|
1986(昭和61年) |
|
1987(昭和62年) |
|
1989(平成元年) |
|
1990(平成2年) |
|
1991(平成3年) |
|
1992(平成4年) |
|
1993(平成5年) |
|
1994(平成6年) |
|
1995(平成7年) |
|
1996(平成8年) |
|
1997(平成9年) |
|
1998(平成10年) |
|
1999(平成11年) |
|
2000(平成12年) |
|
2001(平成13年) |
|
2002(平成14年) |
|
2004(平成16年) |
|
2006(平成18年) |
|
2008(平成20年) |
|
2009(平成21年) |
|
年間約60万人が訪れる天川村は、紀伊半島中部に位置し、周りを近畿最高峰八経ヶ岳(1,915m)をはじめとした標高1,000〜2,000mの「近畿の屋根」大峰山系の山々に囲まれた村です。谷間の集落部は441m〜820mの標高にあり、気温は県北部の奈良盆地より5度から3度低く、避暑地に適しています。降水量は1,500〜2,500ミリと多く、高峰深谷の起伏するこの山岳美、渓谷美、原生林の自然美から吉野熊野国立公園に指定されています。
地名 | 経緯 | |
---|---|---|
極東 | 洞川 | 東経135°59′ |
極西 | 塩谷 | 東経135°45′ |
極南 | 北角 | 北緯34°10′ |
極北 | 洞川 | 北緯34°17′ |
面積 | 175.70平方キロメートル |
---|---|
東西 | 20km |
南北 | 13km |
民家最高所 | 標高845m(洞川) |
最低所 | 標高441m(塩谷) |
最高 | 最低 | 平均 | |
---|---|---|---|
1月 | 10.9 | -7.7 | -0.3 |
2月 | 15.8 | -5.5 | 4.5 |
3月 | 18.4 | -3.2 | 4.5 |
4月 | 24.9 | -2.2 | 9.4 |
5月 | 27.6 | 2.8 | 14.9 |
6月 | 29.2 | 7.4 | 18.8 |
7月 | 31.7 | 14.9 | 22.8 |
8月 | 31.6 | 12 | 22.4 |
9月 | 28.9 | 8.9 | 18.7 |
10月 | 23.7 | 3.7 | 12.6 |
11月 | 21.2 | -1.6 | 7.7 |
12月 | 13.6 | -4.3 | 2.2 |
年間 | 23.1 | 2.1 | 11.4 |
1月 | 81.5 |
---|---|
2月 | 64.5 |
3月 | 135.5 |
4月 | 40 |
5月 | 106 |
6月 | 257 |
7月 | 84 |
8月 | 514 |
9月 | 305 |
10月 | 164 |
11月 | 83.5 |
12月 | 58.5 |
年間 | 1894.0 |