高い山と深い谷によって形成され、冬季もきわめて寒冷である天川村。古くは人々が定住するにはいたらなかった土地でした。また、高天原に所以するとされる「天ノ川」という名称が、この地方の河谷に名づけられたという伝承があり、そもそも定住することがはばかられた一種の「聖域」だったとも考えられています。
そして、このことが修行者たちの「行場」が開かれるきっかけとなり、約1300年前の役行者による大峯開山以来、山岳修験道の根本道場として栄えてきました。弘法大師空海との関わりも深く、大峯山で修行した後、高野山へ至ったその道程には、空海にまつわる多くの史跡・伝承が残されています。
また、大峯連山のひとつ、弥山に祠られた弥山大神の歴史もきわめて古く、天河大辨財天社の隆盛とともに聖域化され、これらに前後して「天ノ川」という河川名が生まれたといわれています。南北朝時代には、南朝方の重要な拠点として後醍醐天皇、護良親王、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇などを擁護しつづけました。村には現在、十三通もの綸旨・令旨が残されています。
古の日本人は、水の起源であり〈生命の源〉と考えた山岳に対して人知を超えた畏敬の念を抱き、神聖な場所として崇めてきました。そのような古代の山岳信仰を礎とし、そこへ仏教、道教、陰陽道などの外来の宗教が融和して確立された、日本独自の宗教と言えます。
開祖は役行者とされ、奈良時代に大峯山(山上ヶ岳)で一千日の修行に入って金剛蔵王権現を感得し、山上に祭祀したことがその始まりとされています。まだ仏教が一般衆生に広がりを見せない時代、上求菩提下化衆生(自身の練成と衆生の救済)を祈りました。
修験とは「修行は難苦をもって第一とす。身の苦によって心乱れざれば証果自ずから至る」という教えです。自ら修して、自らその験しを会得する──超自然的な力や神仏の加護を獲得するためではなく、自らの身体で厳しい修行を収めることにより、その精神を高め社会に貢献していこうとするものです。
大峯の開山時期は未だ明確にはされていませんが、有史以前から、人々の山岳信仰の対象になっていたと思われます。そして6世紀ごろになると、大陸からは仏教をはじめとして道教・神仙道といった宗教が伝わります。ときの朝廷は仏教を国家統治の手段として国経化し、官制の寺院を建立していました。そんななかで密教(雑密)も断片的に伝わり、修行僧を山岳へ誘ったのでしょう。また、求聞持法を求めた僧侶たちが神聖な山中へ分け入ったとも考えられます。大峯山山上ヶ岳はそのなかでも最も神聖な場所でした。
平安時代には、貴族社会において御嶽詣と称して金峯山(大峯山)に参詣することが流行しました。宇多法王は昌泰3年(900)と延喜5年(905)に参詣した記録がありますが、そのころまでには大峯山上に祭祀する堂宇が存在していたと思われます。また、中国五代晋の出帝開運2年(945)から後周の世宗顕徳元年(954)に僧義楚が編纂した「義楚六帖」の日本国の部分には、次のような金峯山の記事があります。
又云ワク。本国都城ノ南五百余里ニ金峯山有リ。頂上ニ金剛蔵王菩薩有リ。第一ノ霊異ナリ。山ニ松桧名花軟草有リ。大小ノ寺数百、節行高道ノ者コレニ居ス。曽テ女人有リテ上ルコトヲ得ズ。今ニ至リテ男子上ント欲スレバ、三月酒肉欲色ヲ断ツ。求ムル所皆遂グ。云ワク、菩薩ハ是レ弥勒ノ化身、五台ノ文殊ノ如シ。
中国から伝わった仏教が日本に定着して、逆に中国まで聞き及ぶほど多くの信仰を集めた例として特筆すべきものです。
その後「蜻蛉日記」には安和2年(969)中納言藤原兼家が息道綱を伴って御嶽詣を行ったと記されています。そして寛弘4年(1007)に参詣した藤原道長の記録が、自身による御堂関白日記に記されています。道長は天皇に嫁いだ娘に皇子が誕生するのを祈って詣で、そして所願が成就して男子出生となりました。「求ムル所皆遂グ」──道長以前より大峯山(金峯山)には所願成就の定評があったと考えられます。
大峯山上の本尊は、道長が埋経した経筒には「蔵王権現」と書かれ、その中に収められていた長徳4年(998)に書写された無量義経の奥書には「金剛蔵王」とありました。奈良時代より金剛蔵王の名称は仏教経典にしばしば登場していましたが、道長の参詣した10世紀末前後で垂迹思想を含んで権現を付し、「金剛蔵王権現」となったと考えられます。
平安時代以降の御嶽詣は王侯貴族や僧侶によるもので、「山伏」あるいは「山臥」の名称については12世紀末から17世紀おこったものと考えられます。江戸時代に入ると一般民衆の生活も安定期をむかえ、職掌山伏が俗人を連れて山上参りをすることが盛んになりました。山上講や行者講など信徒集団の講社が各地に設立されたのもこのころです。また、その講社が大峯山を経済的に支えるようにもなりました。大峯山上の本堂はたびたび火災にあい、現存する本堂は元禄4年(1691)に再建されたものですが、その際には「阪堺役講」という大阪・堺の商人町を中心として構成された各講社(岩・光明・三郷・京橋・鳥毛・井筒・両郷・五流)が、豊富な資金を提供しています(大阪は当時天下の台所として隆盛を極めていました)。現在、役講は本堂の鍵を預かり、修行のシーズンの始まりを告げる戸開け式・シーズンの終了する戸閉め式において重要な役割を果たしています。
講社は地域のコミュニティにおいても重要な意味を持ち、地域の若者が一定年齢に達したとき、大人の仲間入りをさせる通過儀礼として、大峯山で修行させました。山内の行場で行われる厳しい行を成し遂げてこそ、一人前の大人と認められたのです。
戸開式 | 5月3日(未明) |
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戸閉式 | 9月23日(未明) |
*なお、宗教上の理由・伝統により、今なお山上ヶ岳(大峰山寺)周辺のみ女人禁制を守っています。
7世紀後半、皇位継承をめぐる争いで窮地にたたされた大海人皇子は、大和朝廷を守護する神々のふるさと吉野を訪れ、勝利を祈願して琴を奏じました。すると、その音に乗って天女が現れ、戦勝の祝福を示しました。この天女は、役行者が弥山山頂に祀ったとされる弥山大神でした。これに力を得た皇子は、壬申の乱に勝利を収め、即位して天武天皇となります。その後、天皇はこの天女の加護に報いるため、弥山の麓に神殿を造営し、「天の安河の宮」とされました。これが天河大辨財天社の始まりだと伝えられており、天川村の名前の由来となったとされています。
日本の三大弁天のひとつに数えられているこの天河大辨財天社では、中央にその弁才天女、右に熊野権現(本地仏:阿弥陀如来)左に吉野権現(蔵王権現)がお祀りされており、神仏習合の形態を今も残しています。また、神社は大峯本宮あるいは吉野総社として、大峯修験の要の行場とされ、古来、高僧や修験者たちが集まりました。とくに弘法大師空海の参籠後は、大峯参り、高野詣と併せて多くの人々が訪れるところとなりました。
水の精である辨財天女は、音楽や芸能の神様としても有名です。京都の観世界による能の奉納が現在も毎年行われ、世阿弥も用いたとされる阿古武尉の面、能楽草創期からの価値の高い能面、能装束が多数奉納されています。江戸時代、放浪の僧円空も大峯の地で修行され、辨財天社にはその傑作とされる「大黒天」も奉納されています。そのお姿は、やさしい笑顔がこころに残る円空の仏像で、やすらぎを語りかけているかのようです。
南北朝時代は後醍醐天皇による建武の中興(1333)の3年間と、吉野に都を構えて以降3代の天皇による57年の歴史を数えます。その3分の2以上の期間は、奥吉野の各地に拠点がおかれました。天川の郷でも川合地区の河合寺が黒木の御所として、また沢原地区の光遍寺、坪内地区の天河大辨財天社についても南朝に組しそれぞれ行宮とされました。なかでも天河大辨財天社の行宮では、宮中さながらの栄華を極めたといわれています。嘉喜門院集に「天授三年七月七日吉野行宮御楽あり、嘉喜門院琵琶を弾じ天皇和歌を詠ず」としるされています。
天川郷の人々も積極的に加担し、村内の地区ごとに傳御組(おとな組)を組織して忠勤を果たしました。天河郷には十三通の綸旨、令旨が下賜され現存しています。そのなかには天河郷の忠誠を賞でられたものや、その加賞として天河辨財天へ賜った地行地配分のお墨付きなどが含まれています。
観音峯は中越地区と洞川地区の中間に位置しており、南朝文化ゾーンとして休憩所や登山道、案内板が整備されている標高1347メートルの山です。この観音峯の中腹には石灰岩の岸壁に出来た岩屋があります。
天川郷に行宮をおいていた南朝の天皇方は絶えず北朝方の侵攻にあっていました。黒木の御所としていた河合寺は野川の逆徒の来襲にあい、戦の果てに炎上してしまいましたが、天川郷民は応戦し果敢に戦ったと伝えられています。危険が迫った際には天川郷民が自分たちの庭ともいえる人跡未踏の天川の山中に案内して難を逃れたといわれ、この観音の岩屋もそうした場所のひとつ。ここに避難した天皇は洞川龍泉寺を経て西吉野の賀名生へ向かったとされています。
観音の岩屋は現在後村上天皇の守り本尊といわれる十一面観音をお祀り致しており、毎年5月に南朝天皇の威徳をしのんで観音会式が行われています。また、展望台からは世界遺産になった大峯奥駈道や高野山方面に連なる山々のパノラマを楽しむことができます。
光遍寺は建保4年(1216)法然上人の徒弟「念仏坊」により浄土宗の寺院として草創されました。南北朝時代には南朝の仮の御所とされており、後醍醐天皇は自ら一株の梅ノ木に阿弥陀仏を刻みご本尊として名前を仏照山光遍寺と号しました。また宮女として奉仕していた天川位衆傳御の内片山玄番の娘が寵愛を受け、生まれた男子は名前を「賢光」法名を「源光」と号して光遍寺の第5代住職となりました。後醍醐天皇御崩御の際、賢光は深く悲しみ、吉野山陵の様子を光遍寺本堂の裏山に模造しました。毎年8月15日より17日にはその遺徳を偲んで後醍醐天皇会が営まれています。ほかにも皇族と深い所縁を持つ寺で、宗祖門跡に関係する寺、もしくは皇族に関係する寺にしか許されない5本の線が引かれる塀を持ちます。
江戸時代の中ごろのこと、川合地区の前平家の先祖であった「おりわ」さんが畑仕事の途中、大きな石を見つけました。それを掘り返して見ると大きな地蔵さんでした。この地蔵さんは、高さ118センチ・幅43センチの舟形の花崗岩に高さ76.5センチ、幅29センチの菩薩像がほりだされたもので、右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、蓮華座上に立つ姿は、深い慈悲の心を沁みださせています。
像の脇には「大壇主 西阿(せいあ) 仏大工国正」「延元四年己卯六月二十四日」の刻名があります。大壇主とは施主のことで西阿(せいあ)という方の本願により仏大工国正が延元4年(1339年)に作製したと彫られてあります。
西阿(せいあ)という人物については、「大和人物志」に関係記事が書かれてあり、それによると西阿は三輪の人で大和の楠公と言われるほどの大忠臣であったそうです。延元元年(1336年)12月末、後醍醐天皇が吉野の遷幸された時は、楠木正行、和田正朝、眞木定観らとともに、兵を率いて天皇のもとにはせ参じたとあります。
奥吉野の草深い路傍にひっそりと今まで誰の目にも触れることもなかったこの地蔵さんこそ、かつて天川郷の人たちが南朝に寄せた忠節の証であり、奥吉野南朝史の隠れた部分であるといえます。なお、このお地蔵さんは足痛に霊験があるということで、わらじを奉納する者が多かったそうです。
南北朝統一後は室町幕軍による南朝の壊滅作戦が勢いを増し、南朝時代にはタブーであった大峯の聖域にまでその粛清の手が伸びてきました。「天河旧記」「後南朝史伝」によれば、永享11年(1439)3月末から、室町幕府の軍勢による、吉野山中への一斉侵攻が行われました。その際、天川へ入って来たのは、河内の守護、畠山氏の被官であった王寺の片岡氏でした。中谷地区に祀られる「ダルマさん」こと片岡山曽和寺達磨堂は、そのとき片岡氏が天川に進攻して来た際の足がかりとして建立されたものではないかと考えられています。
この達磨堂は、天保15年(1844)2月22日に改築されたという記録が残っており、ただひとつ、草創当時の作を想わせる歌額(桧板造り:43センチ×33センチ)が内陣の鴨居中央に掲げられています。
南北朝時代にこの川に五色の血が流れたため、五色谷と言われています。この血の流れたことには諸説があります。まずは、長慶天皇が合戦に敗れて討たれた時に流れたというものです。これについては下流の十津川村にある国王神社の由緒にも通じるところがありますが、天川の地で首をはねられた長慶天皇のお頭が、流れ流れて十津川に流れ着いたというものです。また、高貴な人が村人に頭を下げて、牛を分けてもらい、食料として屠殺した時に流れた血が五色に輝いたと言うことです。ほかにも、長慶天皇が乗っていた馬が敵の矢にあたって、流れた血が五色に輝いたという言い伝えもあります。いずれにしても南朝の合戦による言い伝えがこの谷には多く残っています。
五色谷の入口から500mほど入ったところで、南朝の天皇の皇子が落ちて亡くなったといわれる淵があります。お稚児さんということで、どの皇子かはわかりませんが、天川の地に避難されていた時に起こったことではないかと考えられています。
五色谷の上流部に巡り石という大きな岩があります。北朝方との合戦の時に、敵を探すために付近をぐるぐる巡ったということで、巡り石と言われています。
南日裏地区の牛頭谷の支流に柿木谷があります。正式には「駆け上り谷」と言われますが、合戦のおり南北の武将が馬に乗って駆け上った場所とされています。途中の岩に馬の蹄の跡が残っています。尾根を越えて五色谷に下りこむと馬屋壷といって、馬を一時隠したとされる場所もあります。今でもその付近の小字を馬屋坪と言います。
笠淵は天の川でも有数の大きな淵ですが、合戦のおり兵士がかぶっていた陣笠が流れて沈んでいたとされ、以来「かさん淵」といわれていましたが、現在はなまって、「がさん淵」と言われています。
天川郷では南朝以降江戸時代が終わるまで、矢箆竹と言われる矢竹を献上品として納めてきました。この矢竹は、大峯の山中にたくさん自生する「スズ竹」でつくられるもので、天川郷は上質な矢箆竹の産地として名を轟かせていたそうです。
南朝方の将兵に愛用された矢竹は、当時それを献上した天川郷民の素朴な忠誠心の表れであり、前線兵士の士気を高めるのに役立ったはずです。天川郷民がこぞって南朝守護に肩入れをしたのが矢箆竹献上だったといえます。
戦国時代になると矢の需要が高まり、矢箆竹の献上は織田家・豊臣家へと受け継がれ、徳川政権が確立されると同時に天川郷は天領に組み入れられ、初代代官小野宗左衛門によって年貢として毎年2200本の矢竹の上納が義務づけられ、幕末まで続きました。庄屋であった畠中藤左ヱ門が毎年御用の荷を仕立てて、大阪城まで運びました。寛政年間の「矢箆竹御用方諸事控」に、その様子が記録されています。
弘法大師空海と修験道とのかかわりは深く、20代のころ求聞持法(ぐもんじほう)を伝授され大峯の山中や龍泉寺八大竜王堂で修行したと伝えられています。また、性霊集にも「空海少年ノ日、好ノンデ山水ヲ渉覧ス、吉野ヨリ南行スルコト一日、更ニ西ニ向ッテ去ルコト両日程、平原幽地アリ、名ヲ高野ト曰フ」とあり、この天川村は大峯奥駈道を通って吉野より約1日(25キロ)の道程にあり、空海は天川村を経て高野山に至ったと考えられます。 辨財天を信仰し、坪内地区に妙音院求聞持堂を建て、天河大辨財天社に参籠し神仏習合の密教を「あ字観」として表わしました。天河大辨財天社には、空海奉納の「五胡鈴」(ごこれい)と言われる密教奥義感得の鈴などが残され、また塔中のひとつである来迎院には空海お手植と伝えられる大銀杏とあ字観碑があります。
弥山に祀られる弥山大神は、金銀などの錬金術をもつ吉野丹生族の金精明神でもあり、空海の天河大辨財天社参籠は、このことと深く関わっているのではないかと思われます。
空海が修行に通ったとされる大峯高野街道(すずかけの道)沿いの籠山の鏡岩は、辨財天参拝のおり、その姿を映し身だしなみを整えられたものと言い伝えられています。
終戦前まで続けられた大峯高野の行者の修行は、地元では「おうかん」(往還)と呼んで親しまれていました。高野山参りをした行列はすずかけの道を通って大峯山に至り、そして吉野へ下り、大峯山からの行者さんは、その逆のコースで高野山から橋本に下ったとされます。山伏装束に身を包んだ一団が頻繁に往来していたそうです。